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福岡地方裁判所 昭和61年(行ウ)1号 判決

原告

株式会社テレビ西日本

右代表者代表取締役

古賀愛人

右訴訟代理人弁護士

村田利雄

山口定男

三浦啓作

杉田邦彦

被告

福岡地方労働委員会

右代表者会長

三苫夏雄

右指定代理人

青柳栄一

山本進平

松岡博和

石黒和恵

被告補助参加人

民放労連テレビ西日本労働組合

右代表者執行委員長

井上英雄

宮内信隆

民放労連九州地方連合会

右代表者執行委員長

伊規須正和

日本民間放送労働組合連合会

右代表者執行委員長

井上至久

右補助参加人ら代理人弁護士

小島肇

山本一行

藤尾順司

諫山博

井出豊継

内田省司

椛島敏雅

田中久敏

小澤清實

田中利美

幸田雅弘

林健一郎

主文

一  被告が、福岡労委昭和五九年(不)第一九号不当労働行為救済申立事件につき、昭和六〇年一二月二三日付でなした命令を取り消す。

二  訴訟費用中、補助参加によつて生じた分は同参加人らの連帯負担とし、その余を被告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  主文第一項と同旨

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  被告は、補助参加人民放労連テレビ西日本労働組合(以下「組合」という。)、同宮内信隆(以下「宮内」という。)、同民放労連九州地方連合会及び同日本民間放送労働組合連合会(以下「民放労連」という。)をいずれも申立人とし、原告を被申立人とする福岡労委昭和五九年(不)第一九号不当労働行為救済申立事件について、昭和六〇年一二月二三日付をもつて別紙のとおり救済命令(以下「本件命令」という。)を発し、同月二九日原告に交付した。

2  しかしながら、本件命令は、事実を誤認し、法律上の判断を誤つたものであり、違法である。

よつて、原告は、本件命令の取り消しを求める。

二  請求原因に対する認否及び被告の主張

1  請求原因1の事実は認め、同2は争う。

2  被告が、本件命令において認定した事実並びに判断及び法律上の根拠は別紙命令書の理由欄記載のとおりであり、本件命令は正当である。

三  被告の主張に対する答弁

1  別紙命令書の理由欄第1「認定した事実」に対する認否

(一)「1 当事者」について

(1) 以下の事実は認める。

ア 組合が原告の従業員によつて昭和三四年一二月一日結成された組合であること、上部団体として民放労連に加盟していること。

イ 民放労連が民間放送及びその関連産業に働く労働者をもつて組織される単位労働組合によつて結成された産業別全国組織であること。

ウ 補助参加人民放労連九州地方連合会が九州地方にある民放労連傘下の加盟単位組合によつて結成された連合会であること。

エ 別紙命令書の理由欄「第1、認定した事実」のうち1(1)④及び(2)記載の事実(以下「命令書1(1)④及び(2)の事実」のように略記する。)。

(2) 組合結成時の組合員に原告の関連企業で働く従業員を含んでいたとする点は否認する。

(3) その余は不知。

(二)「2 組合結成以後の労使関係」について

(1) 以下の事実は認める。

ア 昭和三四年一二月一日組合が結成され、その後、原告と組合とが種々の団体交渉(以下団交という)・協議等を重ね、結成直後の昭和三四年一二月一〇日覚書を締結し(覚書の内容を除く。)、昭和三五年一月二七日唯一交渉団体、チェック・オフ等に関する覚書を締結したこと。

イ 昭和三五年の春闘妥結直後、原告がそれまでは一部にしか採用されていなかつた課制を全社的に採用し、新設された課長職に当時の現職執行委員四名(五名ではない。)を含む組合員八名(一〇名ではない。)を昇進発令し、その後その八名を含む一二名(一〇名ではない。)が組合を脱退し、チェック・オフを中止したこと。

ウ 昭和三六年にユニオン・ショップ協定の締結をめぐつて組合が一三六時間にわたる長期ストライキを実施したこと。

エ 同三七年組合が人事同意約款の協定化を求めて皿倉山・高宮の両送信所を占拠し一五日間にわたつて電波を止め、原告がロックアウトでこれに対抗し、裁判所に立入禁止の仮処分を申請したこと。

オ 昭和三七年の争議が被告のあつせんにより終息し、その争議責任をとつて三カ月の休職処分を受けていた争議当時の組合三役(現職の組合三役ではない。)を、原告が休職期間満了後に東京・大阪支社に各一名、残る一名を本社経理部から同事業部に配転したこと。

カ 昭和四三年八月の人事異動で、原告が一六名(一五名ではない。)の課長昇進を発令し、この時の異動対象者の中に現職執行委員二名が含まれていたこと。

キ 昭和四三年九月二一日に人事異動に関する一三項目の要求書が原告に提出されたこと。

ク 昭和四四年五月二九日に、「執行委員の配転は原則として行わない。」との覚書を締結し、以後執行委員の配転は原則として行つていないこと。

(2) 民放労連の指導のもとに組合が結成されたこと、課長昇進者のうち一三名が内容証明付郵便で脱退届を郵送する等の方法で組合を脱退したこと及び異動の対象者の一名が代議員会副議長であつたことはいずれも不知。

(3) その余は争う。

(三) 「3 本社の福岡移転と報道部の合理化計画」について

(1) 以下の事実は認める。

ア 原告はかねてより、当時北九州市八幡区にあつた本社を福岡市に移転する構想をもつていたところ、昭和四八年一〇月の郵政省電波監理審議会において、移転が承認されたため、昭和四九年一一月一二日(一二月ではない)までに移転を完了し一一月一三日以降福岡本社から放送を開始する方針を打出したこと。

イ 原告と組合とは、昭和四六年七月一七日付で、「機械導入、機構改革に伴う重大なる労働条件の変更については組合と協議する」という覚書を締結しており、福岡移転に関しては五六回にわたる団交を行い、昭和四八年七月一八日付で、「福岡移転を理由とした人員整理をおこなう考えはない。」との議事録確認をしたこと。

ウ 昭和四九年一〇月、原告が新社屋に設置する自動電話交換機AC一二〇を搬入しようとしたところ、組合がこれを実力で阻止したため、原告が福岡地裁に対して右妨害排除の仮処分を申請し、同月二八日同地裁において和解が成立したこと。

エ 本社移転を完了した原告は、第一次オイルショック後の厳しい経営環境の中で新しい放送体制、経営基盤の確立を迫られており、昭和五一年から長期経営計画第一次三か年計画を実施したこと。

オ 昭和五一年一月に当時の浅山社長が年頭記者会見を行つたこと。

カ 昭和五一年に組織変更で報道部と映画部と合体して報道映画部ができたこと。

キ 当時原告において、社員の能力開発、職場の活性化を重視していたこと。

ク 原告側の下本地曻が、被告の審問において、「原告においては入社時に職務(職種ではない。)が限定されないことから部門間の配転の例はこれまでにいくつも存在する。また、同様の配転は民放他社でも行われていることであり、むしろ増える傾向にある。」旨の証言を行つたこと。

ケ 醤油メーカーの汚水たれ流しの状況を宮内と石岡茂が取材し、その取材してきたものが放送されなかつたことから、団交の席でこの事が議題となつたり、地区の春闘共闘委員会やその他の団体が来社したりしたこと。

コ 職場新聞として「ペンカメ」が出されていたこと。

サ 原告が昭和五三年七月の定期異動で松本幸俊(以下「松本」という。)を北九州支社へ、尾登憲治(以下「尾登」という。)を大阪支社へそれぞれ配転する旨の内示を行つたこと。

シ 組合は、昭和五三年七月二二日、被告に対し、配転撤回と配転問題についての団交開催を求めてあつせんを申請したが、あつせん委員会の口頭勧告が出てあつせん作業が打ち切られたこと。

ス 原告は、松本に対して昭和五三年八月八日付で、尾登に対して同月一四日付で、それぞれ人事発令を行つたこと。

セ 組合が同月二九日に被告に不当労働行為救済の申立てを行い、松本、尾登の両名及び追加申立てのあつた豊村正紀の三名がいずれも赴任を拒否して指名ストによる闘いを続けていたところ、昭和五五年一月一六日和解が成立し、原告は右三名を一旦配転先に赴任させ、程なく元の職場に配転したこと。

ソ 原告はCIS委員会を作つて社内活性化と社のイメージを向上させる計画、いわゆるCIS計画を策定し、昭和五六年四月一日これを実施したこと。

タ 職場新聞として「解決ZERO」が出されていたこと。

(2) 以下の事実は不知。

ア 業務局試案が昭和五〇年九月三〇日付で作成されたこと。

イ 後藤及び宮内の報制第一支部における組合役職。

ウ 組合が民放労連の統一課題として日頃から放送の民主化についての要求を行つてきたこと。

エ 従前から原告の報道の縮小・合理化の姿勢に強い不満と危惧の念を抱いていた報道部の組合員はこの事件をきつかけとして昭和五〇年一二月組合内に報制第一支部を結成し、初代支部委員長には宮内が、同副委員長には後藤が選ばれたこと。

オ 松本及び尾登の昭和五二年一一月当時の組合役職並びに右両名が「ペンカメ」の編集委員であつたこと。

(3) その余は争う。

(四) 「4 宮内の職歴と名古屋支局配転」について

(1) 以下の事実は認める。

ア 命令書4(1)の事実。

イ 昭和五六年七月二三日本社営業部の部次長待遇チーフマネージャーの宮内に対し、当時の横尾業務部付部長が同年八月三日付で大阪支社営業部名古屋支局長(部次長待遇)に配転する旨の内示をしたが、その際事前に本人の意向を打診する等のことは行わなかつたこと。

ウ 名古屋支局は支局長と女性従業員一名の二人勤務の支局であること。

エ 原告は、組合の配転撤回要求に対して、団交の席上で業務上の必要に基づく配転であるから撤回要求には応じられない旨を回答したこと。

オ 組合が同年七月二七日に被告に宮内配転の撤回及び配転ルールの設定を求めてあつせん申請をし、同月二九日被告において第一回あつせんが行われたこと。

カ 右あつせんの席で、組合は、宮内の配転撤回及び概ね認定の趣旨のルール化を主張し、原告は、宮内を名古屋支局長に選任した事情に関し概ね認定の趣旨の説明及び「配転ルールの設定」に関し「本人の意向は、上司が日常の接触の中から把握している。」、「国内の支社(局)への配転に際して在任期間を予め明示することは業務遂行上出来ない。」との主張をしたこと。

キ 原告が同年七月三一日の第二回あつせんにおいて、検討の結果、「自己申告制度の導入を検討する」、「宮内の名古屋支局在任期間は従来の慣例(三年程度)を配慮する」、「支社(局)の在任期間について、予めこれを明示することは出来ない」との見解を述べたこと。

ク 最終的には被告の認定趣旨のあつせん案を、労使双方が受諾して事件は解決し、宮内が名古屋支局に単身で赴任したが、あつせん案受諾に際しては、被告から参考までに福岡県における「自己申告制度の職員調書」が双方に手交されたこと。

ケ 命令書4(4)の事実

コ 同(5)の事実のうち、K社及びH社における人事異動に関する協定を除く部分。

(2) 同(5)の事実のうち、K社及びH社における人事異動に関する協定の部分は不知。

(3) その余は争う。

(五) 「5 宮内の北九州支社配転」について

宮内の名古屋支局赴任以降、組合が機会ある毎に宮内を含む支社への長期配転者の本社復帰を配転ルールの確立と併せて要求していたこと、昭和五九年二月二二日行われた第一回アフター・ケアの席上での組合の主張及び名古屋支局における歴代支局長の在任期間及び着任前・退任後の職場のうち別表「歴代名古屋支局長の在任期間一覧表」と異なる部分を争い、その余は認める。

(六) 「6 宮内の組合活動」について

(1) 以下の事実は認める。

ア 組合の執行委員についてはその氏名が組合より原告に通知されているが、代議員や支部執行委員についてはその氏名は通知されていないこと。

イ 宮内が昭和三八年八月(七月ではない。)から一年間は副執行委員長、昭和三九年八月(七月ではない。)から一年間は書記長、昭和四五年一一月から昭和四七年二月までは執行委員であつたこと。

ウ 特徴的な活動として掲げられているもののうち、②記載の事実。

エ 昭和五九年五月八日の組合史上三番目と言われた大規模なストライキに宮内はストライキが行われることを事前に知りながらこれに参加せず、広告代理店の主催する親睦ゴルフ大会に参加したこと。

(2) その余は争う。

(七) 「7 宮内の昇進と会社の脱退勧奨」について すべて争う。

(八) 「8 隈・柴田に対する配転」について

(1) 以下の事実は認める。

ア 原告は隈正之輔(以下「隈」という。)を昭和三六年一月一日付で東京支社へ配転したこと。

イ 昭和四〇年五月、隈がメーデー参加問題に関して山陽放送東京支社で起つた住居侵入、傷害事件(以下「東京支部連事件」という。)で逮捕、起訴されたが、この事件は最終的には昭和四五年東京高裁で無罪が確定していること。

ウ 原告は人事同意約款をめぐる送信所占拠事件で、組合の第五期執行委員会の委員長であつた柴田長(以下「柴田」という。)を、被告あつせんにより三か月の休職処分に付したこと。

エ 原告が昭和三七年七月二三日付で休職処分の解けた柴田を、東京支社営業部へ配転したが、発令当時、同人は執行委員ではなかつたこと。

オ 原告は昭和四三年八月の人事異動で柴田を大阪支社へ配転したこと。

カ 原告は昭和四九年八月に柴田に対して大阪支社から久留米支局(久留米支社ではない。)への配転を発令したがその赴任を一か月猶予したこと。

キ 柴田が昭和五二年に組合を脱退したこと。

2  反 論

原告が宮内を北九州支社に配転したのは、業務上の必要性に基づくものであり、不当労働行為意思に基づくものではない。

すなわち、福岡県を主たるサービスエリアとする原告は、地元ローカルの二大拠点である福岡、北九州を中心に、更に久留米にも拠点をおき営業活動を展開するものであるが、広告料に収入の一〇〇パーセント近くを依存する民間放送として、大手広告主の本社が存する東京、大阪、名古屋における営業活動も地元ローカルと共に重要な拠点である。

そのため、原告は業務上の必要に基づき、従来から福岡本社、本社分室、北九州支社、久留米支社、東京支社、大阪支社、名古屋支局相互間の配転による人事の交流を定期的あるいは臨時に行つて来たところである。

原告は、被告あつせん案ならびにアフター・ケアの経緯を尊重して、昭和五九年八月に宮内を福岡県内の勤務地に異動することにしたが、その際、同時に大阪支社営業部勤務の江口哲雄(以下「江口」という。)も福岡県内の勤務地への異動の対象とした。これは、当時組合員の遠隔地単身赴任者は宮内と江口の両名だけであつたが、単身赴任二年一一か月である宮内を福岡県内に異動させるとすれば、宮内より職位の低い、しかも単身赴任四年六か月であつた江口も、同様に福岡県内に異動させるのが人事の公平性に合致すると配慮したからである。

ところで、当時地元(福岡県)ローカル営業の強化ということが原告において重要な課題であつた。昭和五九年当時の原告の営業売上げは、福岡営業においては在福民放四社中第三位、北九州営業は昭和四九年末まで本社所在地であつたということもあり、四社中第一位を確保していたが、他社の急追を受けていた。右状況下において原告は右両名を福岡、北九州営業へそれぞれ一名宛配置することにより地元ローカル営業の強化を計ることにしたのである。

しかして右両名の適材適所性を比較すれば次の事情であつた。

江口は既に北九州本社の時代に七年四か月間北九州営業の経験を積み、その後福岡営業へ移り六年七か月間の経験を積み、更に大阪営業を四年六か月経験しており、特に福岡営業勤務のときの業績は優秀で、スポンサー、代理店とのつながりも宮内とは格段の差があつた。

一方、宮内は編成部六年四か月、報道部五年六か月と各分野で経験をつんだのち、福岡営業四年六か月、名古屋三年の経歴であつた。

そこで、特に売上げ第三位の福岡営業の強化のため福岡に実績のある江口を配置し、宮内を管理職としての経験を積ませる意味も含めて北九州へ配置したのである。

なお、人事異動後の福岡・北九州営業部の職位・人員の配置は別紙命令書理由欄第1の5(4)記載の表のとおりであり、これは組織上も業務運営上も江口を福岡に、宮内を北九州に配置したのが適正であつたことを示すものである。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1の事実は当事者間に争いがない。そこで以下本件命令の基礎となつた事実関係について検討する。

1  (原告と組合との労使関係)

(一)  次の事実については、当事者間に争いがない。

組合は、昭和三四年一二月一日に結成され、以後二か月程の間に原告との間で「会社と組合は労働三法の精神を充分尊重する。」等の内容の覚書(この覚書の内容については、〈証拠〉によりこれを認める。)並びに唯一交渉団体及びチェック・オフ等に関する覚書をそれぞれ締結したが、昭和三五年から同三六年にかけて、組合員の昇進による組合脱退等が原因で原告との間で紛争を生じたのを発端に、昭和三六年にはユニオン・ショップ協定の締結をめぐつて一三六時間のストライキを実施したり、昭和三七年には人事同意約款の協定化を求めて皿倉山及び高宮の両送信所を占拠して一五日間にわたり電波を止めたりしたが、これらの紛争は昭和三七年四月七日労使双方が被告のあつせんを受入れたことにより一応解決した。

更に、昭和四三年には、組合員の課長昇進による組合脱退及び組合執行委員の配転等を原告の組合攻撃だとして反発した組合が、原告に対し人事異動に関する要求書を提出して闘争を行い、昭和四四年五月二九日に原告との間で「執行委員の配転は原則として行なわない。」という覚書を締結した。

また、昭和四九年には、原告が、その本社を北九州市から福岡市に移転する計画を実施に移したことに伴い、組合と原告との間で労働条件の変更等について五六回にわたり団交が行われ、同年一〇月には自動電話交換機の搬入をめぐつて紛争が生じたが、これについては、原告が裁判所に申立てた仮処分手続において和解が成立した。

(二)  命令書3(2)ないし(4)の事実のうち当事者間に争いのないもの(被告の主張に対する答弁1(三)(1)のうちエカキケソ記載の事実)に加え、〈証拠〉を総合すると以下の事実を認めることができ、同認定を覆すに足りる証拠はない。

原告は、右本社移転後の昭和五一年、第一次オイル・ショック後の厳しい経営環境のもとで経営の合理化を目指す長期経営計画第一次三か年計画を実施した。しかし、組合は、これを人員削減を計るものとして否定的に評価し、特にニュース枠の充実拡大を求めていた報道部の組合員は、この計画により報道部が縮小されるとの危惧の念を抱き、原告の右経営方針に反対する姿勢を示していた。

昭和五〇年一一月には、地場の大手醤油メーカーが基準値を大幅に上回る汚水を排出するという事件が起こり、当時原告報道部の記者であつた宮内ほか一名が取材にあたつたが結局その取材内容が放送されなかつたことから、組合は、これがスポンサーの圧力によるものだとして原告の報道姿勢、ひいては経営姿勢を非難するとともに、原告に対し団交の席等で抗議したが、ここでも報道部組合員が中心となつて行動した。

昭和五一年に報道部と映画部とが統合されたことや、当時社員の能力開発及び職場の活性化のため部門間の人事交流の必要性が意識されていたこともあるが、右のように報道部において活発な組合活動を行つた組合員の多くは、その後昭和五一年から五三年までの間に、他の部署へ配転されている。

なお、昭和五六年四月に、原告が会社の活性化をはかる運動としてCIS計画を実施した際、組合営業部の職場新聞には、同計画の趣旨には賛同しつつも、実効性については疑問視する記事が掲載されていた。

2  (原告と組合との間の配転に関する問題)

(一)  命令書8(1)の事実のうち当事者間に争いのないもの(被告の主張に対する答弁1(ハ)(1)アイ記載の各事実)に加え、〈証拠〉によれば以下の事実を認めることができ、同認定に反する証拠はない。

組合結成時の第一期執行部書記長であつた隈正之輔(以下「隈」という。)は組合結成後約一年経つた昭和三六年一月一日付で本社から東京支社へと配転され、現在まで東京支社に配置されたままとなつている。組合側は、この配転が組合弱体化を意図してなされたものだとして、原告に対し隈を本社に戻すように要求しつづけているが、原告は、隈が昭和四〇年五月に山陽放送東京支社で起こつた住居侵入・傷害事件で逮捕・起訴され昭和四五年に東京高裁で無罪が確定するまで刑事被告人の地位にあつたこと及び同人が昭和四二年に東京で原告東京支社採用の女子社員と結婚したことから、昭和四五年までは右刑事事件の審理のためという理由で、それ以降は夫婦同時に本社へ異動させることは業務上困難であり、さりとて単身赴任は本人の意思にも反し、組合の反撥を招くという理由で、同人を本社に配転していない。

(二)  命令書8(2)の事実のうち当事者間に争いのないもの 被告の主張に対する答弁1(ハ)(1)ウないしク記載の各事実)に加え、〈証拠〉によれば以下の事実を認めることができ、同認定に反する証拠はない。

前記送信所占拠の争議当時の組合執行部委員長であつた柴田長(以下「柴田」という。)は、被告のあつせんにより紛争が終息した後、この争議責任により三か月の休職処分を受けていたが、この処分の解けた三日後の昭和三七年七月二三日(この時は既に組合執行委員の職は離れている。)付で本社から東京支社へ配転された。そして、同人は、昭和四〇年に前記山陽放送東京支社で起こつた刑事事件に関して種々の活動を行つていたところ、昭和四三年八月には大阪支社へ配転され、同支社において民放労連大阪支部連の書記長をしていた昭和四九年八月には久留米支社へ配転された。その後、同人は、昭和五二年に組合を脱退し、昭和五六年本社に配転された。組合は、これについて、原告が柴田の組合活動を理由として支社をたらい回しするような配転をしたと主張している。

(三)  命令書3(5)の事実のうち当事者間に争いのないもの(被告の主張に対する答弁1(三)(1)コないしセ記載の各事実)に加え、〈証拠〉によれば以下の事実を認めることができ、同認定に反する証拠はない。

昭和五二年一一月から、報道部組合員の手で、原告の報道姿勢を批判する職場新聞「ペンカメ」が発刊され、松本幸俊及び尾登憲治がその編集委員となつて、毎日のように発行されていたが、昭和五三年八月の定期異動で、右松本は北九州支社へ、右尾登は大阪支社へそれぞれ配転する旨の内示がなされた。このため、組合は、この配転がペンカメ発行にたいする報復であり、組合の報制第一支部の活動への攻撃であるとして、同年七月二二日、原告に対し配転撤回と配転問題についての団交開催を求めて被告にあつせん申請を行つた。しかし組合と原告との立場の相違から一致点が見出せず、被告の口頭勧告のみであつせんは打切られた。その後、原告が内示どおり右両名の配転を発令したため、組合は被告に不当労働行為救済の申立を行つたが、昭和五五年一月一六日被告の和解勧告により、右両名は不当配転の追加申立をした他の一名とともに一旦は原告の配転発令を受諾して配転先に赴任するものの別途念書により程なく元の職場に戻るという申し合わせで解決がついた。

3  (宮内の経歴等)

(一)  当事者間に争いのない命令書4(1)の事実及び同6の事実のうち当事者間に争いのないもの(被告の主張に対する答弁1(六)(1)アないしウ記載の各事実)に加え、〈証拠〉を総合すれば以下の事実を認めることができる。

宮内は、昭和三六年五月、原告編成局管理課に臨時雇用として採用され、約一年後には同局編成部、同四三年に同局報道部(記者)、同四七年五月から約一年間ソウル支局駐在の後、同五二年二月まで報道制作局報道部福岡支社(昭和四九年一二月からは福岡本社)駐在となつた。

この間次のとおり組合役職を歴任している。

昭和三八年八月から同三九年八月まで 第七期執行委員会副執行委員長

昭和三九年八月から同四〇年八月まで 第八期執行委員会書記長

昭和四〇年七月から同四一年七月まで 民放労連九州地方連合会副執行委員長

昭和四二年一〇月から同四三年一〇月まで 単組中央行動隊副隊長

昭和四四年一〇月から同四五年一一月まで 単組代議員会則議長

昭和四五年一一月から同四七年二月まで 第一四期執行委員会執行委員

昭和五〇年一月から同年八月まで 報道部代議員

昭和五〇年一二月から同五一年一一月まで 第一期報制第一支部委員長

昭和五一年一一月から同五二年二月まで 第二期報制第一支部書記長

特に、昭和五〇年前半ころの前記報道部組合員が行つていたニュース枠の拡大要求等のほか原告の経営姿勢に対する批判活動においては、組合報道部代議員として、前記醤油メーカーの汚水排出事件が報道されなかつた件についての組合の抗議活動においては、その取材にあたつていた当事者として、昭和五一年ころ以降の前記組合報道部が原告の長期経営計画を人員合理化計画であるとしてこれに反対した活動においては、組合の報制第一支部委員長ないし書記長として、いずれも活発な組合活動を行つた。

その後宮内は、昭和五二年二月、業務局営業部へと配転され(原告においては、採用時に特に職種を限定しておらず、他部門への人事異動も行われていた。)、ここでは組合業務局営業部の代議員となり(昭和五〇年末ころから組合には支部組織が結成されたため、組合役員として正副支部長、支部書記長、支部委員等もあり、代議員の地位の重要性は以前に比べて相対的に低下している。)、昭和五四年一月、前記松本および尾登ほか一名の不当労働行為救済申立事件の審問手続において、証人として証言をしたことがあるが、その外には特筆すべき組合活動をした形跡はない。因みに、宮内が営業部代議員であつた当時、営業部の職場新聞において原告のCIS計画に対する批判がなされた事実の存することは前記認定のとおりであるが、しかし、右批判はさほど論調の厳しいものでもなく、またこれについての宮内の関与の程度も証拠上明らかでないから、これをもつて宮内が営業部において積極的な組合活動をしたことの証左とすることはできない。

(二)  被告が認定した宮内に対する昭和五〇年二月九日及び昭和五三年一月ころの二回に亘る組合脱退勧奨の件について、原告はその事実を全面的に否定する。

なる程、昭和五三年の件については、〈証拠〉も未だ会合の日時、場所、経緯、対談内容等についての具体性を欠き、〈証拠〉の記載及び宮内において当時格別際立つた組合活動等を行なつた形跡もないことを併せ考えると、原告の当時の営業部長的野正が宮内に対して、組合脱退の勧奨をしたとの認定をするのは困難である。

しかし、昭和五〇年の件については、〈証拠〉からも明らかなように、原告の当時の報道製作局長であつた村井聖一自身もそのころ宮内と福岡市内の喫茶店で会合し、対談したことを認めており、加えて、右村井の陳述書に現われた右会合の理由、対談内容についての説明には、些か説得力に欠けるものがあることや、〈証拠〉における宮内の供述内容の具体性、さきに認定の宮内の組合活動の状況等を併せ勘案すると、右村井が右会合の席上、宮内に対して、少くとも組合からの脱退勧奨と受け取られかねない言動に及んだのではないかとの疑念が濃厚である。

4  (宮内の名古屋配転とその後の経緯)

(一)  命令書4(2)ないし(5)の事実のうち当事者間に争いのないもの(被告の主張に対する答弁1(四)(1)イないしク、コ記載の事実)に加え、〈証拠〉によれば以下の事実が認められ、同認定に反する証拠はない。

昭和五六年七月、宮内に大阪支社営業部名古屋支局に配転する旨の内示がなされた。組合は、名古屋支局が支局長と現地採用の女性社員一名の二人勤務の小さな支局であること、名古屋・東海地区が民放労連における労働組合活動の低調なところであることを理由に、この配転が宮内の組合活動に対する報復だとして直ちに団交で配転の撤回を要求したが、原告はこれに応じなかつた。そこで組合は、同年七月二七日、被告に対し宮内の配転撤回及び一般的な配転ルールの設定を求めてあつせん申請を行つた。この事件は、同年七月三一日、左記あつせん案を双方受諾することで一応解決した。

記(あつせん案)

1  配置転換および転勤については、本人の意向をできるだけ尊重するため自己申告制度を導入すること。

2  配置転換及び転勤にあたつては、自己申告内容を出来るだけ尊重し、特に居住地変更を伴う場合については内示一〇日前に本人の意向を打診すること。

3  配置転換および転勤該当者の教育研修については、その直後、新職務遂行にあたり必要に応じこれを行うこと。

4  遠隔地転勤について、その在任期間の限定は出来ないが、今次宮内の名古屋支局転勤については従来の慣行通りとすること。

5  今次宮内の転勤については、家庭の都合を配慮し九月一五日まで赴任を延期すること。

なお、このあつせんの段階では、組合が配転ルールの一つとして遠隔地配転について在任期間を明示することを要求していたこと、宮内の名古屋配転の撤回を求めていたことから、同人の在任期間については論議されたが、次の配転先について話題になることはなかつた。

また、右あつせん案受諾後、原告は、昭和五六年一一月一〇日の労使協議会で右あつせん案第1項に従い、自己申告制度に関する会社案を組合に対して示したが、組合は、配転諸問題は自己申告制度の導入だけで片付く問題ではないとして、組合の配転に関する他の諸要求を含めて協議することを主張し始め、これに対し、原告は、配転に関して一定のルールはできているとして、あつせん案で取上げられている自己申告制度問題を切離して協議することを主張したため、結局労使の協議は進まず、自己申告制度は導入されないままに終つている。

(二) 〈証拠〉によれば、宮内の名古屋支局配転後の組合活動として、右あつせん案に従つて名古屋支局に赴任した昭和五六年一〇月、名古屋支局のもう一人の従業員である山田美知を組合に加入させ、これを契機に結成された組合の大阪支部において副委員長となつたこと(この組合支部は、結成早々の課題として、宮内が入居することになる名古屋支局長の社宅を通勤に便利なところへ移すよう要求することを掲げた。)及び組合が昭和五九年六月二七日になした原告の昇給昇進差別を理由とする不当労働行為救済の申立てをした際、同申立人会議の事務局次長に選任されたことが認められるものの、その他には格別目立つた組合活動をしたことを認めるに足りる証拠はなく、かえつて、当事者間に争いがない事実によれば、宮内は同年五月八日組合の大規模なストライキが敢行された際、これに参加せず、広告代理店の主催する親睦ゴルフ大会に出席参加している。

(三) 命令書5(1)(2)の事実のうち当事者間に争いのないもの(被告の主張に対する答弁1(五)において認めている事実)に加え、〈証拠〉によれば以下の事実を認めることができ、同認定に反する証拠はない。

組合は、あつせん終了後、宮内の配転に関し、あつせん案第4項の「従来通りとする。」の意味は、赴任期間が二年一か月であり、かつ、次の異動先が本社であることだと組合ニュース等で主張し始め、春闘要求時あるいは年末要求時などに他の支社への長期配転者とともに宮内を本社へ異動させるよう求めていた。ところが、宮内の名古屋支局赴任から約二年六月経つた昭和五九年二月の異動期(従来から原告の定期人事異動の時期は二月と八月であつた。)に至つても、宮内の配転予定がなかつたことから、組合は同年二月六日、被告に対し、右あつせん案第4項の解釈についてアフター・ケアの申入れを行つた。このアフター・ケアの席では、組合が「歴代の名古屋支局長の在任期間は単純平均で二年一〜二か月であり、最長と最短を除いた平均でも二年六か月となるので、宮内は昭和五九年二月の異動で本社に戻されるべきである。」と主張し、原告は「あつせん案は遵守するが、会社としては、あつせん案第4項に言う『従来の慣行』とは三年程度が目途と解釈しているし、名古屋の次の赴任地についてはあつせんの過程では一切問題にされていなかつたので、『あつせん案どおり本社に戻せ』という組合の主張はおかしい。」と主張した。被告は、昭和五九年三月八日の第二回アフター・ケアにおいて、「慣行どおりというのは、労働委員会としては、いくらかの幅はあるにせよ、三年を基準として考えた表現である。」との立場から、原告に対し左記内容で意向を打診した。この意向打診に際しては、期間の問題が中心となり、次の異動先については遠隔地ではないという以上にこれが本社であるか否かについてまでは特に明確にはされなかつたところ、原告はこれを受け容れることを表明し、組合もこれを了解したので、これによるアフター・ケアは終了した。

1  会社は、昭和五六年七月三一日付あつせん案を遵守する。

2  前回二月二二日に示された、地労委のあつせん案第四項「従来の慣行」とは、あつせんの経緯から「三年を標準とするもの」と解釈するという見解も了解する。

よつて、全般的人事については別だが、宮内氏の人事については、2項の趣旨を配慮し善処する。

なお、名古屋支局における歴代支局長の在任期間及び赴任前後の所属は別表のとおりである。

5  (宮内の北九州支社配転)

以下の事実は当事者間に争いがない。

昭和五九年七月一九日、原告は、大阪支社長を通じて宮内に対し、同年八月の異動で北九州支社への配転の内示を伝え、その意向を打診したところ、宮内は、本社への配転を期待しており、北九州支社配転には不満であつたが、大阪支社長に対して直接その意向を表明して抗議することはなかつた。ところが、これを知つた組合は、かねてより宮内について本社へ配転することを要求として掲げていたところから、同月二五日、「今回の宮内に対する北九州支社配転の内示は不当労働行為であり、宮内を本社へ戻すよう強く申し入れる。」旨の申入書を原告に提出した。しかし、原告は、当初の予定どおり宮内を北九州支社営業部へ配転する旨発令した。

宮内は、この発令どおり北九州支社に赴任したが、自宅が福岡市東区にあるため片道約一時間五〇分の通勤時間を要している。但し、原告においては、かつて本社が北九州市から福岡市に移転したこと、現在の福岡本社が交通の便のよくない場所にあることなどから、本社への通勤時間に一時間半から二時間を要する者も少なくはない。

6  (北九州配転の合理性)

原告は、本件における宮内の北九州支社配転が業務上の必要に基づくものであつて不当労働行為意思に基づくものではない旨反論しているところ(被告の主張に対する答弁2)、業務上の必要性を基礎づける事情として、〈証拠〉によれば左の(一)ないし(五)の事実を認めることができる(同(一)の各支社等の存在及び同(五)後段の事実は当事者間に争いがない。)。

(一)  原告は、福岡県を主たるサービスエリアとするが、営業活動のために現在福岡本社のほか北九州、久留米、東京、大阪に各支社を、名古屋、西ドイツのボンに支局を置いており、本社と各支社・支局相互の配転による人事の交流は、業務上の必要に基づき定期的あるいは臨時に行われてきた。

(二)  本件配転当時に遠隔地に単身赴任していた組合員として、宮内のほか大阪支社勤務の江口哲雄がいて、宮内は支局に二年一一か月、江口は支社に四年六か月勤務しており、原告としては、人事の公平を図る上からも、両名を少なくとも地元福岡県に戻す必要があつたところ、組合も、この両名について本社への異動を要求していた。

(三)  当時原告において地元ローカルの営業強化の必要性が意識されていたところ、原告の営業売上げは、地元二大拠点の一つである北九州においてはかつて原告の本社があつたこともあり民放四社中一位であつたのに対し、福岡においては同四社中三位であつて、福岡の方が営業強化の必要性が高かつた。

(四)  宮内と江口の経歴をみた場合、宮内は編成約六年四か月、報道約五年六か月、福岡営業約四年六か月、名古屋営業約三年であるのに対し、江口は北九州営業約七年四か月、福岡営業約六年七か月、大阪営業約四年六か月であつて、江口の方が営業経験が豊かなうえ、福岡営業時代の実績も高かつた。

(五)  昭和五九年八月の人事異動前においては、北九州支社営業部には部次長待遇チーフ・マネージャー(当時の宮内の職位)がいないのに対し、福岡本社営業部にはこれがおり、右異動により各営業部の人員配置が命令書5(4)記載の表のとおりとなつた。

二上記事実に基づき、本件配転が労働組合法七条一号及び三号の不当労働行為に該当するとした本件命令の適否を検討する。

1 まず、本件配転は、それ自体名古屋支局から北九州支社への配転であり、宮内にとつても組合にとつても別段不利益はなく、むしろ有利な配転と言うべきであるから、そもそも不利益取扱いに該当しないとも考えられなくはないが、しかしこれを福岡本社に配転されること(宮内以前の名古屋支局長が転出の際前任地へもどされていたとして同人にこれをあてはめて想定したもの)と比較すれば、会社の機構上も本社ではなく支社であること、自宅が福岡市にあり通勤時間が長くなること等からみると、一応不利益な取扱いと言つて差支えない。

したがつて、原告が、宮内の組合加入ないしはその正当な組合活動を嫌忌したことを決定的動機として、あえて同人を福岡本社ではなく北九州支社に配転したとすれば、本件配転は不当労働行為に該当することとなるので、以下この点につき検討を加える。

2(一) まず、原告が宮内を福岡本社に配転すべき法律上の義務を負つているといえるかについて検討する。

(1)  宮内の配転については、昭和五六年七月三一日のあつせん案に基づく合意が成立しているところ、その第四項の「今次宮内の名古屋支局転勤については従来の慣行通りとすること。」との文言の趣旨は、そもそもあつせんの段階では名古屋支局からの転勤先については話題になつていなかつたこと、右文言部分は「遠隔地転勤について、その在任期間の限定は出来ないが、」という文言に続いていることからみて、被告も判断するとおり在任期間を従来の慣行通りとする趣旨でしかなく、福岡本社への異動をも内容としているものとは解し難く、他に、原告が宮内との間で、右の点につき格別の合意をしたことを認めるに足りる証拠はない。

(2)  また、過去名古屋支局長からの異動の際は同支局で退社した一名を除く延べ七名の同支局長が前任地へ戻つているという事実も、これを法的に意味のある労働慣行と認めることはできない。すなわち、企業内で繰り返される事実が法的意味をもつ慣行と言い得るためには、単にその事実が累積されているだけでは足らず、当事者がこれによる意思を有していること、言い換えると、その事実が当事者の規範的な意識に支えられた企業内の事実上の制度として確立していることが必要であると解されるところ、本件の異動の前例は七例に過ぎず、その数自体が少ないだけでなく、内容的にみても、前任地が支社から本社になつていたり(安部)、業務が変わつたり(由布を除く六名)しており、業務上の制度として考える余地もなく、他に、これが事実上の制度として当事者の規範的な意識内容となつていることを窺わせる証拠はない(なお、被告は、このような前例について、名古屋支局長の職が精神的にも業務上もハンディがあることから、これに対する労いの意味もあつて、原告が従来の支局長を前任地へ戻す取扱いを事実上積み重ねてきた旨説示しているが、右説示も、こうした取扱いが、当事者の規範的な意識に支えられた法的に意味のある労働慣行に高められているという趣旨を述べたものとまでは解されない。)。

(二)  したがつて、少なくとも、原告において宮内を本来福岡本社に戻すべき法的義務を負つているものとは認め難いところ、この点を踏まえて検討するに、なるほど、前記一の認定事実によれば、昭和三五年以来、数多く生起してきた原告と組合との紛争の過程における原告の組合に対する対応には、その当否は別として、多少硬化した姿勢が窺えなくもなく、かつ、宮内自身、相当期間積極的に組合活動に従事し、名古屋支局への配転問題を巡つて原告と対立関係にあつたもので、その宮内が福岡本社への配転を希望していたことは、原告も十分認識していたものと認められるけれども、本件配転に関する限り、こうした諸事情をもつて、原告に前示の決定的動機があつたとするには十分でない。

すなわち、被告が実施した前記アフターケアの経緯に照らすと、宮内の次期配転先を、宮内が自宅を有する福岡市を基準にして遠隔地にはしないことが暗黙の前提とされていたものと認められるものの、この制約の下で、宮内の具体的配転先をどこに定めるかは、基本的に、業務上の必要及び人事上の公平の見地からなされる原告の裁量の範囲内に属する事柄であり、宮内個人の希望は、右裁量の際に考慮すべき一事情に止まると言わなければならない。そして、原告は、宮内を福岡市から通勤可能な北九州支社に配転したものであり、このこと自体、客観的、外形的にみる限り、右裁量の逸脱がなかつたことを示すものと評価せざるを得ない。

もとより、原告が、特段の業務上及び人事上の要請がないにもかかわらず、宮内の希望をことさら無視して北九州支局に配転したというのであれば、別論であるが、本件においては、このような事情を窺うことはできず、かえつて、本件配転を含む定期人事異動に際し、単身赴任中の宮内及び江口を福岡本社及び北九州支社に配転する対象として考慮し、営業強化の必要性と両名の職歴、異動後の職位のバランス等から、宮内を北九州支社に、江口を福岡本社に配置したという原告の主張は、一応の合理性を有しているものと認められるところである。

以上の点に加えて、宮内の組合活動が最も活発だつたのは昭和五〇年から昭和五二年にかけての頃であり、本件配転直前の勤務地である名古屋支局においてはそれほど目立つた活動がないこと、宮内が福岡本社ではなく北九州支社に配転されることにより、組合がその活動上著しい障害を受けるという事情もないこと、北九州支社と福岡本社とを比較した場合の不利益性がそれほど大きいとは解されないこと等の諸事情を総合判断すれば、原告が、宮内の組合加入ないし組合活動に対する嫌忌を決定的動機として、本件配転を行つたものと推認することはできないと言うべきである。

三以上によれば、本件配転が労働組合法七条一号若しくは三号に該当する不当労働行為であるとは認め難く、これを肯定した本件命令は違法であつて取り消しを免れないというべきであるから、原告の請求は理由があるものとしてこれを認容すべく、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民訴法八九条、九三条、九四条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官藤浦照生 裁判官倉吉敬 裁判官鹿野伸二)

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